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  • 日本アサーション 協会

「寄り添うこと」と「向き合うこと」と              八巻甲一

これは私のひとり言である。独りよがりで言葉の遊びにもなりかねないつぶやきである。それがこのブログを読んでくださる方にどんな意味をもたらすかは想像もつかない。だが、私には書きたいと思わせるものがあったので書いてみようと思ったのである。


ブログのテーマを何にしようかと考えあぐねていたある日たまたまラジオで「寄り添うことと向き合うこと」という言葉に接した。聞けば「寄り添う」という言葉が軽んじられた使われた方がされているのが気になるという。それに対して「向き合う」ということの意味と大切さを訴えていたように思う(違っているかも知れない)。「寄り添う」と「向き合う」という言葉を聞いて何やら他人事に思えなかった。ちょっと心動かされたのである。ということでテーマを決めてちょっと考えてみたくなった次第である。


「寄り添う」という言葉は日常的に使われているのだが、カウンセリングを学ぶ過程では特別の意味を伴って使われる。クライエントの心情の理解を求められるカウンセラーには「寄り添う」という言葉でクライエントへの対応のあり方を示せるからだ。特に、カウンセリングを学び始めた初心の方には分かりやすいイメージとして映るようだ。対人支援という特別の関係の持ち方を考えた時とても大事な姿勢であることは疑いようがない。しかし、私はこの言葉を今まであまり使ったことがない。どうしてだろう。


思い浮かぶのは、この言葉をあまり使わないことの理由の一つ(もしかすればこのことこそ)が、そこからイメージ出来るなんとなく照れる感じがあるからである。恥ずかしいに近いがともかく心穏やかにいられない。因みに広辞苑を引いてみた。寄り添うは「ぴったりと傍による」とある。「ピッタリと傍に」….、か。ウーム、これは苦手だな。使わない理由が分かった感じだ。この個人的感情(身体感覚と言ってもいいか)が「寄り添う」という言葉に反応してしまうようだ。寄り添われる方だって私のような身体感覚を感じる人もきっといると思う。寄り添われて嬉しく感じる人もそうは感じない人も。「寄り添う」ことは誰にでもいつでもしていいことではないらしい。それなりの配慮と慎重さが求められることというしごく当然のことに行きつく。つまりは私の身体感覚はそれなりに大切にしていいということらしい。


さて一方の「向き合う」というのはどうだろう。言葉のイメージから思い浮かぶのは「きちんと」とか、「姿勢を正して」とか、「正直に」とか「きりっとして」という言葉だ。「寄り添う」とは違ってこちらは身体感覚としての恥ずかしいという感じはしない。その代わりどう向き合うのかという「向き合い方」が問われ身が引き締まる感じがする。再び広辞苑を引いてみる。向き合うとは「互いに向き合う」と並んで「現実に向き合う」という用語例が載っている。考えてみれば向き合う対象は無限である。そうした中で自分に向き合う、内面に向き合うなど抽象的だが意味のありそうなことが思い浮かぶ。「真に自分に向き合う」という言い方もある。こうなると求道者のような自分を律するイメージだ。「向き合う」という言葉も奥が深そうだ。

そう言えばアサーションの実践には「自分(の内面)に向き合い」次に「相手に向き合う」というステップがあると言える。「協働」を謳うCAATはどうだろうか。「協働して~」というイメージから「(共に)寄り添う」というよりも「(共に)向き合う」という方が近い感じがする。共に向き合い、共に学び合うと考えるとむしろピッタリかも知れない。CAATの実践には「向き合う」という言葉を大切にしたくなった。どう大切にするか。それこそ理屈の世界ではなく実践の中で問われることだ。やれやれ、えらいところに辿り着いてしまった。(独り言にお付き合い下さり感謝申し上げます)



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